ミャンマー国旗物語②


日本が強力な後ろ盾となっていた1943~45年の国旗。

独立後、1948~1974年までの国旗。
アウンサンスーチーさんや亡命政権は今もこの国旗のみを認めている。

1974~2010年までの国旗。
社会主義を標榜する軍事独裁政権が採択した。

2010年11月に採択された現在の国旗。
政権による民主化への新しい取り組みの第一歩だったのか。

ミャンマーの「民主化」と国旗の変遷についての話は、現代に戻ります。9年前、2003年8月、当時のキンニュン首相が民主化に向け、7段階の「ロードマップ」を発表しました。

その第一段階として、同年5月、憲法制定のための国民会議が開催されました。国民会議の開催は実に8年ぶりでした。しかし、翌年10月、路線や政治姿勢が不徹底であるとするクレームに抗しきれず、キンニュン氏はタンシュエSPDC(国家平和発展評議会)議長(1933~)により更迭され、ヤンゴン(ラングーン)で自宅軟禁(2012年1月、軟禁解除)されてしまい、さらにはその勢力基盤であった国防省情報局や国家情報局のスタッフ数百人も逮捕されてしまいました。それでも、後を継いだソーウインSPDC第一書記が首相として、憲法制定のための諸準備を進めました。

「世界最大の独裁者の一人」(『ビルマの独裁者タンシュエ』B.ロジャーズ著、秋元由紀訳)と言われたタンシュエ氏は2011年3月に国家元首の地位を退いてからは、少なくとも表舞台では政治や軍事に口を挟まずに、2011年3月、大統領に就任したテインセイン氏らに国家運営を任せている様子です。テインセイン氏はそれまでに軍籍を離脱していましたので、文官としての大統領ということになります。しかし、タンシュエ氏の消息はその後まったく伝えられず、ミャンマーの専門家たちにとっても、これは最大の謎とされています。

タンシュエ氏が独裁者だった2005年11月7日、ミャンマー政府は、首都をヤンゴンから市街地さえなかったようなネーピドー(ヤンゴン市の北方約300キロ)に移転すると発表し、わずか約4カ月で政府機能の大半を移転しました。しかし、日本はもとよりヤンゴンにある大使館機能をネピドーに移したという国はありませんでした。

もちろん、こうした軍事政権の動きに反対する人々は、弾圧にも拘わらず行動しました。まず、2007年9月、燃料費大幅値上げに端を発して、僧侶を中心に市民を巻き込んだ大集団が軍政に抗議して立ち上がったのです。今回釈放されたガンビラ師はこれを指導したとして、禁錮68年の刑を言い渡され、収監されていたのです。

このデモを取材中の日本人カメラマン長井健司さん(50)が同月27日、射殺され、ほかにも多数の死傷者がでました。

長井さんの殺害の様子を含む実写フィルムが秘かに持ち出され、渋谷の小さな映画館で公開され、私は改めてショックを受けました。映画は「ビルマVJ――消された革命」です。VJとはビデオ・ジャーナリストの意、デンマーク人のアンダース・オステルガルド監督が実写フィルムをベースに一部再現映像をつなげたドキュメンタリー映画です。 文字通り決死の覚悟で撮影し、そのたデータを各地に転送しては世界に知らしめていこうとする「ビルマ民主の声」なるVJのみなさんの、文字通り命がけの努力には、ただただ敬服し、一日も早いビルマの民主化を願わざるを得ませんでした。

「ただ、だからといって、国際社会を含めて、<軍事政権=悪、民主勢力=善>という単純な図式化で思考停止し、その現実的解決策や展望を示さないのはいかがなものでしょうか」と、やや醒めた感想も、私はその夜のブログに書いておきました。

テインセイン大統領は就任後、矢継ぎ早に指導力を発揮しました。2011年8月、大統領とアウンサンスーチーさんとの会談が行われて以降の改革は想像を超える早いテンポでした。9月にはメディアやインターネットの規制を緩和し、10月には230人の「政治犯」を釈放、11月にはアウンサンスーチーさんの政治活動参加に道を開く政党登録法を改正、12月には制限付きとはいえ、政治集会やデモを容認、2012年に入るや1月初めにはカレン族との停戦に合意し、また、22~35人の「政治犯」釈放のニュースが流れました。そして今回の「政治犯」全員の釈放です。

その間にあって、この国の進路に関わる注目すべき大きなニュースは2011年9月末、テインセイン大統領が、北部カチン州で中国と共同建設している水力発電用大型ダム「ミッソンダム」の開発中止を表明したことです。

このことを報じる10月4日付の産経新聞は、川越一北京特派員の記事は中国の海外進出についてミャンマーのみならずアフリカ支援などについても考えさせられる記事を掲載しています。

「多額の投資・援助で途上国を抱き込んできた中国だが、ミャンマーやリビア、ザンビアなどの政権交代に伴い、民主化や人権改善に背を向ける“北京コンセンサス”の限界が見え始めている。同ダムは、ミャンマーの軍事政権と中国政府の間で契約が結ばれた。中国国有企業による投資総額は36億ドル(約2760億円)にのぼる。軍政幹部が開発推進を強硬に主張したとされ、中国政府からの賄賂の存在がささやかれていた、いわく付きの事業だ。ミャンマーでは民政移管後、環境保護を訴える声が沸騰。テインセイン大統領は世論に応える形で(ダムは)自然景観を破壊し、地域住民の暮らしを破壊するなどとして、軍政の決定を覆した。

欧米諸国からの経済制裁に対応したミャンマーが中国に大きく頼っていたこれまでの政策の大きな転換点とのいえる括目すべき事態であるといえましょう。

アメリカは政府と議会の関係が複雑でもあり、経済制裁解除まではまだ時間が必要でしょうが、旧宗主国であり、アウンサンスーチーさんとしっかりしたパイプを持つイギリス近々、ミャンマーへの支援活動を大幅に拡充することになるでしょう。また、そうなれば、財政問題を抱えている、EU諸国や北欧なども同調することになるでしょう。

韓国は先に、ラカイン州の沖合で天然ガスを発見。2014年までに商業生産できるよう努力しているとう報道もあります。

日本への期待は大きいのです。特に、ミャンマーとしては、農業の基盤整備や技術の改良などにより、これまでの主産業である稲作の生産性向上への支援を期待しているようです。

国旗の話に戻ります。

2010年まで使用されていた旧国旗は、1974年1月3日、ビルマ連邦社会主義共和国のネウィン将軍によって変更されたデザインです。赤地で、カントンに青い長方形が入った、1948年の独立以来のミャンマー(当時はビルマ)の国旗と大きくは変わらない、中華民国(台湾)の国旗と似たデザインでした。ネウィンはアウンサン率いる青年活動家グループ「三十人の志士」の一人であり、海南島で日本軍の厳しい軍事訓練を受けてアウンサンと行動を共にした人です。

第2次世界大戦後、独立したビルマ連邦(Union of Burma)の最初の国旗(1948~1974年)は、カントンの部分の、大きな白い星はこの国のビルマ族をはじめとする諸民族の団結を、小さな5つの白い星は主要な五民族を表していました。そして白は潔、青は和と誠実、赤が勇気と団結を象徴しているという説明でした。

しかし、1962年に発足した軍事政権は社会主義を標榜し、1974年に国旗を変更しました。この時に制定された2つ目の旗は、カントンに農民を表す稲穂と労働者を表す歯車、そして周囲には14個の小さな星が配されたデザインに変わりました。14個の星はタインと呼ばれる7管区とピーネーと呼ぶ7つの州を表すものでした。

以上の経過から、アウンサンスーチーさんやNCGUB(ビルマ連邦国民連合政府。米国メリーランド州のロックヴィルにあるビルマの亡命政府)など、軍事政権を不当・不法なものとして認めない人たちは、現在の国旗はもとより、1974年にネウィンによって変更されたものも否定し、ビルマ連邦時代のカントン(旗面竿側上部)に星が並んだ国旗(独立後最初の国旗)を、「ビルマ」民主化の象徴として使用しています。NCGUBの現在の最高指導者はアウンサンスーチーさんの従兄弟であるたるセインウィン氏です。

ところで、日本の報道機関は、最近、ほぼ一斉に従来の「ミャンマー(ビルマ)」という表記をやめ、単にミャンマーとのみ記すことになったようです。はたして、20年前、公正な選挙で圧勝したNLDを抑え込んでできた軍事政権に由来する今の政権を、この段階で全面的に信頼してよいのかどうかは判断の分かれるところでしょう。米国の議会の中でも、見解が分かれ、オバマ大統領が「政治犯」の釈放を評価して、20年ぶりに外交関係を大使レベルに格上げするという決定をしたことやクリントン国務長官が「米国は行動には行動で対応する」と発言し、大使の具体的な人選をすると発表したことについても、「極めて時期尚早」という、ロスレーティネン下院外交委員長のような有力議員もいます。

確かに、核保有への道を歩み始めているという情報さえ流れ、IAEA(国際原子力機関)の抜き打ち査察を可能にする「追加議定書」への署名や北朝鮮とのミサイル売買協力の断絶を迫るべきだとの国務省高官もいます。

今回の「政治犯」釈放は、諸外国の経済制裁解除に向かう第一歩であることは確実と思われますが、同時にこの国がさらに民主化の道を歩み、国際社会の一員として健全な国家運営が行われることを期待します。

新しい国旗が、新しいミャンマーの国民的和解の象徴になるよう、国民の間に信頼感が醸成されることを切に望みます。

ミャンマー国旗物語①
ミャンマー国旗物語③

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