韓国国旗物語

日本でいう終戦記念日、8月15日を韓国では光復節として祝います。
これは1910年8月に日韓両国が併合し、その後、韓国という国は35年間、地理上から消えていたのを1945年のこの日、日本の敗戦で回復したという日です。
この日、敗戦の混乱の中で朝鮮半島の各地で、日章旗が、ほとんどの場合丁寧に降納され、歓呼の中、即席で調達されたが掲揚されたのでした。

当時の写真を見ると太極旗の四隅にある卦の形や巴の色が統一ですが、その後、何度かの調整を経て、現在の形になりました。
そのあたりの国旗デザインの変化を、独立記念館の正面玄関前の展示で見ることができます。
天安は1919年の「3.1万歳事件」で民衆を率い、「独立烈士」と称揚されている女学生・柳寛順の出身地です。

1882年、朴泳孝(1861~1939)らが金玉均と共に開化党(独立党)を結党。
1882年7月、壬午事変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された修信使節団員の一人として来日する船(日本から派遣された明治丸)上で、この人たちがそのデザインのオリジナルな案を考えたとされています。
皇帝からの許しもあった伝えられています。

しかし、帰国後、1884年12月に甲申政変を起こして閔妃派からの政権奪取を図るのですが失敗、日本に亡命しました。
金は都内、小笠原の父島、北海道などに隠れるのですが、最終的には上海に逃れ、そこで刺客に惨殺されました。そのあたりについては、
毎日新聞の記者だった青柳緑さんが書いた『李王の刺客』というすばらしい小説があります。朝日新聞の1千万円懸賞小説の募集で、
三浦綾子の『氷点』に次いで次席になった名作です。
朴は1910年の日韓合併以降、侯爵となり、日本側に重用された典型的な「親日派」政治家であり、
実業家でもありました。
韓国では最近でも「親日派」の子孫から財産を没収するなどということが図られますが、この「太極旗」の経緯はどう解釈したらいいのでしょうね。

韓国では大勢の人たちが最初の太極旗を搜しましたが、今日では行方が分からないままです。
ただ、1997年8月8日に東京都立中央図書館で関連する記事が見つかりました。
1882年10月2日付時事新報です。

時事新報はこの年の3月に東京で創刊されて1936年まで続いた日本語の新聞です。
この記事で、修信使朴泳孝の日本訪問を称揚し、国旗の制定に至る背景を説明しています。

朝鮮には國旗と云べきものなきに今度支那より來りさる馬建忠が朝鮮の國旗は支那に從ひ三角形の青地に龍を書くべし本國支那は黄色を用るども朝鮮は支那の東方に當る那たるを以て東は青色を貴ぶの意により青色を用ふべしと指示したるに國王は大に之を墳み決して支那の國旗に倣ふべからぬとして四角形の玉色地に太極の圖(二つ巴繪)を青赤にて書き旗の四隅に東西南北の陽卦を附けたるを自今朝鮮の國旗と定むる沙汰せられたりとあり(原文のまま)

韓国では20世紀の初め、未だ近代化が進まないうちに隣国日本の急激な発展に巻き込まれ、ちょうど100年前の、1910年には日本に統合されてしまいました。
日本がナショナリズムの昂揚期にあり、隣国はこの国旗の制定に見るようにナショナリズムが追いついたばかりでした。
その後の韓国民の苦労を思う時、朴泳孝や金玉均の努力は、冷静に見てどう評価すべきなのでしょう。

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