夜の赤坂にも三色旗だが

内戦続くシリアからの難民に対し、わが国がどう対応すべきかということで、某有力議員に招ばれ、赤坂で夕食を共にし、忌憚ない話合をした。私は1978年に日本がインドシナ3国から定住難民を受け入れたように、たとえ最初は少数であっても、シリアから隣国に逃れた人たちを受け入れるべきだと思うという意見を、よく説明した。35年前にまず500人からやったことを今の日本が50人からできないことはない。

1975年4月30日のサイゴン陥落で、長年続いたベトナム戦争は終焉した。それに伴う急激な共産党系の独裁政権が樹立されていく過程で、カンボジア、ベトナム、ラオスから大勢の人々が隣国タイに、そして“ボートピープル”として南シナ海に命がけで出た。

78年、相馬雪香さん(67)にカナダ人の友人から、「タイの難民キャンプには日本製品が溢れているが日本人は誰もいない」「難民を受け入れない日本」という手紙がきた。「難民に冷たい日本人」というレッテルが貼られた。

これに発奮した相馬さんが呼びかけて、友人たちに働きかけ、「インドシナ難民を助ける会」の設立にこぎつけた。正式な発足は79年11月24日になった。私はその準備段階から深くかかわり、愚妻もとい愛妻・柳瀬房子は5年前に亡くなった相馬さんを継ぎ、会長の任にある。「一家に一人」の原則を守り、私は還暦以来、特別顧問として紗々茅に関わっている。

その創立35周年を記念しての総会が6月21日、内幸町のプレスセンターで開催された。

世界15カ国に事務所を持ち、何十億もの予算である。日本人スタッフだけでも80余人、みな高学歴で、博士や修士が、外国留学組が大勢いる。超一流の会社や中央官庁を辞めてまで転職してくる人が大勢いる。しかし、私たちが始めたころは、NGOに関わろうというのは私がその典型であるように、変わり者か落ちこぼれがほとんどだった。その変わりように、ここ15年くらい、私は喜びと不安を持ち続けている。NGOの幹部の腰が重くなり、書類作りのうまい者、助成金を取ってくる者が「優れもの」と見られる傾向が出てきてはいまいか。「NGO官僚」のようにはなっていないか。正直、不安である。

次の35年、そのイノベーションをどう成し遂げるか、見届けたいものだ。それとともに、相馬さんが毎朝のように電話してきて憂いていた「日本人の遅れている面」の改善、社会全体の健全な改革がどこまで進んだかも心配だ。

現に、あの都議会での醜態は何だ。なぜ、劣悪なヤジを飛ばした男はなぜ、堂々と「自首」しないのか。思うところがあれば、その信念を披歴せよ。「男の風上にもおけない」といっては之また差別用語と非難されるかもしれないが、それが私のホンネである。

話をシリア難民に戻そう。この35年、本当に日本社会はイノベートしたのだろうか。

某議員と食事して出てきたところにこの写真の店があった。フランスとイタリアの国旗を看板にして掲げている。確かに、日本人の「胃袋の国際化」は大きく伸長した。しかし、私を含め、肝腎の一人ひとりの「マインドの国際化」はどれだけ進んだのか。老生はまだまだ頑張らなくてはと思いを新たにした。このままでは相馬さんに会えない。

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