89歳の独裁者も来日① – TICAD5 横浜で


1980年から現在に至るジンバブエの国旗。
ムガベ独裁政権後は?

TICAD5にも出席したジンバブエのムガベ大統領

6月1日から横浜市で第5回アフリカ開発会議(TICAD5)が行われ、アフリカから約50カ国の首脳が集まった。残念ながら、その割には日本での盛り上がりは十分とは言えなかった。5年に1回のこの会議だが、日本人の関心の低さは、①日ごろアフリカについては政治も報道も関心が低いこと、②この間、中国が日本を凌駕してアフリカを「自家薬籠中」のものにしたこと、③その結果、国連改革などでも日本はアフリカの積極的な賛同を得られないでいること、④会場での警備が尋常ではなくNGOやアフリカに関心ある人々(元外務省アフリカ大使経験者)までほとんど締め出されるような結果だったことなどによると思われる。

僻むわけではないが、前回は、両陛下もご臨席された総理(福田康夫首相)主催晩餐会に夫婦で招かれたが、今回はNGOの主催行事に顔を出すことができたのみ。

TICAD5への異色?の出席者は、長期にわたり「独裁」を続けている、ジンバブエのロバート・ムガベ大統領(89)。欧米諸国が渡航制限などの制裁を科している人物だ。

ムガベ大統領の訪日は、ジンバブエ独立(1980年)後の81年に同国首相として、また、大統領就任(87年)後の89年に続き、3回目。
1960年、ジンバブエの前身・南ローデシアに帰国したムガベ氏は、マルクス主義に傾倒するようになり、ジョシュア・ンコモ率いる国民民主党 (NDP) に参加した。この党は、ローデシアの名前で独立国家の体制を築いていたイアン・スミス白人政権によって禁止された。スミスは南アに似た白人支配のままの独立国家を目指したが、これを覆そうとする黒人の運動も急速に盛んになっていった。

私が初めてジンバブエという「国名」を知ったのは1968年にベルギーのリエージュで開かれた世界青年会議(WAY)でのこと。ムガベ氏が参加していたかどうかはわからないが、屈強そうな黒人の青年が「白人による人種差別とジンバブエの支配に反対を」と演壇でテーブルを叩いて力説していた。


1964~68年の南ローデシアの旗。
東京オリンピックにはこの旗で参加した。

1968~79年のスミス政権時代(ローデシア)の国旗。
人種差別政策を世界から糾弾され、1968年のメキシコ五輪では選手村への入村を拒否されて不参加。
72年のミュンヘン五輪には招待されなかった。80年のモスクワ五輪には参加した。

NDPは後にジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU) となり、ムガベ氏は1963年に同党を離れ、同志とともに対立関係にあったジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU) に参加し、ZANUの中心メンバーとなった。すなわち一緒に加わったチテポ氏は党首となり、ムガベ氏はZANUの書記長に任命された。

このグループは毛沢東思想の影響も受けており、また、解放闘争においてはソ連型の社会主義、共産主義路線を支持していた。今でもジンバブエの国旗に赤い星があるのはその影響である。

1964年ムガベは逮捕、拘留された。在獄は10年に及んだが、その間、独学で法律を学んだ。1974年釈放され、モザンビークに出国し、今度は中国の軍事支援を受けて、ジンバブエ・アフリカ民族解放軍 (ZANLA) を結成し、スミス政府軍と武装闘争を開始した。


ロンドンのジンバブエ大使館前で行われたムガベ政権に反対するデモ(2006年夏)。「虐殺、強姦を止めよ」とある。
写真はウィキペディアから。

1979年、イギリス政府は、ジンバブエ・ローデシアの全政党に呼びかけランカスター・ハウスにおいて会議を開催した。この会議にはスミスとムガベのほかさまざまな勢力の代表が参加し、「ランカスター・ハウス協定」により、翌年2月に選挙を実施することが決定した。

この選挙は、不正や疑惑に満ちたものと見られているが、ムガベ率いるZANUは、80議席中、57議席を獲得し、同協定であらかじめ白人勢力に割り振られた20議席を除く、圧倒的多数となり、ムガベ氏は初代首相に就任した。首相就任のよく81年に初来日したことは先に述べた。

政権獲得直後のムガベ氏はスミス元首相ら白人旧政権指導者に対し努めて寛容な態度で臨み、国際社会から高い評価を得た。白人社会や欧米諸国の協力を得た融和政策は「アフリカでの黒人による国家建設のモデル」と称賛され、1988年には第2回アフリカ賞を授与された。経済運営もそれ名での支配層である白人との協力で行い、教育や医療にも予算を配分し、乳児死亡率の低さとアフリカ最高の識字率を達成し、「ジンバブエの奇跡」として絶賛された。1987年12月31日には名実ともに最高権力者となって大統領に就任した。爾来25年、その地位にあり、このたびの訪日の際の記者会見では近く行われる予定の大統領選挙にも立候補すると語った。

私は1985年から2、3度この国を訪問したことがあるが、首都ハラーレは英国の地方都市のような雰囲気を持ち、白人と黒人が比較的うまく共同社会を作ってゆけるのではないかと期待されていた。

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