久々に出会った満州国の国旗

日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた満州国。

今から考えれば、日本にとって都合のいいことばかり並べて、事実上、わが国の領土を拡大したような形であるが、日本とっては政治的、経済的、軍事的に、要するに戦略上、最重要の存在を創出し、そこに多くの人材を投入し、当時、3800万の住民と120万人の日本人、そして100万近い軍人によって「国づくり」に当たっていたということだろう。


靖国神社遊就館内の展示(部分)

第二次世界大戦開戦前の1939年当時において、ドイツ(1938年2月承認)やイタリア(1937年11月承認)が承認、さらに第二次世界大戦の勃発後にもフィンランドをはじめとする枢軸国、タイ王国などの日本の同盟国、クロアチアなどの枢軸国の友好国、スペインやデンマークなどの中立国など、合計21か国が満洲国を承認した。また、ソ連とは法的関係は別として、実務レベルの関係を有し、領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んでいた。米、英、仏など国交を結んでいなかった大国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。

これは、当時、世界の独立国は60か国未満であったことを考えると、決して少ない数ではない。今日のクリミア、南オセチア、アブハジア、コソボ、パレスチナ、西サハラ、台湾、以前の北朝鮮などと比較してみるのも面白そうだ。

靖国神社の遊就館で満州国の国旗「新五色旗」と久々に会った。この国旗は建国に先立つ、1932年2月23日に東北行政委員会が採択したもので、3月1日の満洲国政府佈告3「國旗制度佈告ノ件」により、次のようには焦られた。満洲国の「国旗を5色と定め、旗地を黄色、旗の左上角は紅、藍(青)、白、黒の4色とし、全体の4分の1を占有するとした。また、旗の横縦比は6対4と」すると定めた。

国旗の意義や解釈については、翌1933年2月24日の国務院佈告第3号「國旗ノ意義解釈ニ関スル件」で、「青は東方、紅は南方、白は西方、黒は北方、黄は中央を表し、中央行政をもって四方を統御するという意味である」と記されている。5色は五行思想によるものである。

また、満洲国国務院総務庁情報処が発行した『満洲国国旗考』には、「黄色は中央の土であり万物を化育し、四方統御の王者の仁徳を意味し、融和・博愛・大同・親善を表す。赤は火と南方を意味し、誠実真摯・熱情などの諸徳を表す。青は木と東方を意味し、青春・神聖などを表す。白は金と西方を意味し、平和・純真公儀などを表す。黒は水と北方を意味し、堅忍・不抜の諸徳などを表す」と記されている。

なお、毎日新聞社編『大日本帝国の戦争1 満州国の幻影』には「五色旗は黄、紅、青、白、黒で日・満・漢・朝・蒙の五族協和を象徴させた」との記述があるが、公式には上記で決められているだけであり、国旗と五族協和は、巷間、付け加えられた説明というほかない。

山梨県北部や長野県には、満蒙開拓団としてかの地に渡り、帰還して苦労を重ね、この地を開拓したという趣旨の記念碑がたくさんみられる。往時の夢と現実との乖離を思いつつ、やがて訪れる入植100周年までにでも、しっかりと総括しておくべきことのように思えてならない。

  • 大日本帝国(枢) – 1932年(大同元年)9月15日、日満議定書によって承認
  • エルサルバドル(連)- 1934年(康徳元年)3月3日、日本に続いて2番目の承認国
  • コスタリカ(連)- エルサルバドルと同時に承認
  • 中華民国南京国民政府(枢) – 1940年(康徳7年)11月30日の日満華共同宣言によって相互承認
  • タイ(枢)
  • ビルマ国(枢)
  • フィリピン(枢)
  • 蒙古聯合自治政府(枢)
  • 自由インド仮政府(枢)
  • ドイツ国(枢)- 独満修好条約によって承認
  • イタリア王国(枢)- 後に日満伊貿易協定を締結
  • スペイン
  • ポーランド(連)※
  • クロアチア独立国(枢)
  • ハンガリー王国(枢)
  • スロバキア共和国(枢)
  • ルーマニア王国(枢)
  • 大ブルガリア公国(枢)
  • デンマーク(ドイツ占領下)
  • フィンランド(枢)

(枢)のついている国は第二次世界大戦時の枢軸国(その後離脱した国を含む)(連)のついている国は連合国。※ポーランドについては1938年10月19日交換公文により相互に最恵国待遇を承認し、満洲国からは事実上の国家承認とみなされていた。

上記の国の内、日本と南京国民政府に常駐の大使を、ドイツとイタリアとタイに常駐の公使を置いていた。東京に置かれていた満洲国大使館は麻布区桜田町50(現在の港区元麻布)にあり、ここは日中国交正常化後、広大な敷地を持つ中華人民共和国大使館に代わった。在日本大使の一覧も参照されたい。

外交上の交渉接点があった諸国

国際慣例では、ある使節団との接触を明示的に拒否し続けなければその使節団を派遣した「国家」を承認したということにはならず、「国交」のない使節団のために領事館を設営することを承認したからといって暗示的に国家承認を与え(られ)たことにはならない。このため、満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。

ソビエト連邦とは満洲国建国直後から事実上の国交がありイタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内のチタとブラゴヴェシチェンスク[37]に満洲国の領事館設置を認めた。さらに日ソ中立条約締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉をおこなっていた。満洲国を正式承認しなかったドミニカ共和国やエストニア、リトアニアなども満洲国と国書の交換を行っていた。バチカン(ローマ教皇庁)は、教皇使節(Apostolic delegate)を満洲国に派遣していた[38]。

外交活動

満洲国は1941年(康徳8年)に日独伊防共協定に加わっている。1943年(康徳10年)に開催された大東亜会議にも張景恵国務総理大臣が参加している。

一方、満洲国は日独伊三国同盟には加盟しておらず、第二次世界大戦においても連合国への宣戦布告は行っていない。しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には枢軸国の一部であったとも解釈できる。

満洲国は建国以降、日本、その中でも関東軍の強い影響下にあり「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとしたが、このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

しかしその後、ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペイン国などのその後の第二次世界大戦における枢軸寄り中立国も満洲国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独立国として安定した状態に置かれた。アメリカやイギリス、フランスなど国交を結んでいなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。

第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍による満洲侵攻と、日本の太平洋戦争敗戦により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中国国民党率いる中華民国に返還された。その後の国共内戦を経て、現在は中国共産党率いる中華人民共和国の領土となっている。

中華民国および中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、「偽満」「偽満洲国」と表記する。同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北部」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満州」という修飾と共に呼称する。

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