イギリスとスペインの領土紛争③ – ジブラルタル住民が英国領を希望

スペインが「21世紀のレコンキスタ(失地回復運動)」としてジブラルタルの併合をいかに熱望しても、実は、弱点が1つあります。それは肝腎のジブラルタルの住民の大半が英国への帰属のままでいいと言っていることなのです。


ジブラルタルの旗

1967年9月10日に実施された住民投票で、ジブラルタルに対するスペインの主権や、スペインとの連合案は圧倒的大差で否決されました。住民たちはこの9月10日を「ナショナル・デイ(国家の日)」とし、私は見たことはないのですが、家庭や職場で窓やバルコニーにこの旗を掲揚し、旗を体に巻きつけて街を歩いたり、小旗を掲げた自動車の走行が目立つそうです。

スペイン国民の気持ちも解ります。しかし、それならモロッコ側にあるスペイン領土も手放してはどうでしょうか。スペイン領であるセウタ、メリリャの両地域はモロッコにしてみれば、眼の上のタンコブに違いありません。

2007年11月5日、スぺイン国王フアン・カルロス1世とソフィア王妃がセウタを公式に訪問しました。スペイン王室としては実に80年ぶりのことだそうです。これに対しモロッコは厳重に抗議し、駐スペイン大使を本国に返すなど、謹聴した一幕もありました。

セウタは1415年にエンリケ航海王子がムーア人から奪取し、ポルトガル王国の領土になりました。ですから、今でもセウタの紋章がポルトガル王国時代の国章に酷似しているのです。

1580年、ポルトガルの王朝断絶に伴い、スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を継承したためセウタはスペイン領となりました。そして、1668年1月1日のリスボン条約でポルトガルが再び分離独立した際、セウタは正式にポルトガルからスペインに割譲されのでした。

その後は、何度も海からのイギリス、陸からのイスラム勢力の脅威にさらされましたが、スペインはこのセウタとメリリャの両地域を守り通してきました。

1956年のモロッコが独立したに際には、セウタとメリリャはともにスペイン領として認められたのでした。今では、両地域とも当然ながら、EUの域内でありユーロが通貨であるという、イスラム国に隣接するヨーロッパ的な雰囲気の観光地として人気を集めています。

モロッコは、「スペインがジブラルタルを自国の領土だと主張するならば、カナリア諸島とセウタ及びメリリャを引き渡すべきだ」と主張していますが、スペイン政府も、セウタ、メリージャの両地域住民もこれを拒否しています。


カナリア諸島の州旗

カナリア諸島の州旗

メリリャの旗

カナリア諸島は(Islas Canarias=犬の島)は、大西洋上、モロッコの北西沿岸に近くにある、7つの島からなるスペイン領の群島。現在では、有力な漁業基地として日本からも多くの漁船員が周辺で活動していますが、中南米に進出したスペインにとってはかつて軍事上、通商上きわめて重要な中継点でした。人口は約200万人。歴史的経緯と地理的な近接さに、モロッコ系の住民もいますが、スペインとしてはここを手放すなどということはありえません。

また、ジブラルタルがイギリスの海外領土であるという地位であるのに対し、セウタとメリリャ、そしてカナリア諸島はスペイン本国の一部であると説明し、領土の割譲を認めないと言い放っています。

しかし、公平に見て、イギリス領のジブラルタルもスペイン領のセウタとメリリャも、これらはいずれも植民地主義の時代の遺物といえるのではないのでしょうか。ですから、「ヘラクレスの柱」はスペインの栄光と大国時代への郷愁の象徴と言っていいのではないでしょうか。

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