旗竿の金球は神武東征に由来

川崎市在住の向坂秀雄さんとおっしゃる人生の少し先輩の方から、「日の丸を掲げる旗竿の金球は神武東征に由来するはずだが」とのお問合せを戴いた。文中、血圧が少々高めとありましたが、最近めったにおいただけなくなった達筆なお手紙には感心した。

結論からいうと、「全くその通り」です。『古事記』にも『日本書紀』にも出てくるが、ここではまず、ウィキペディアから『日本書紀』の神武東征について引用(抄)させていただく。これが、ブラジルW杯と関係があると言っては、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいなはなしか? いやいや…。


「神武天皇御像」(遊就館蔵)

「神武東征」(明治時代の作品)

『日本書紀』では 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳の時、天祖ニニギが天降って179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。

長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いでは、戦いの最中、金色の鵄(とび)が神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)の弓の先にとまった。金鵄は光り輝き、長髄彦(ナガスネヒコ)の軍は眩惑されて戦闘不能になった。

八咫烏(やたがらす)は、日本神話において、神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる烏である。

熊野三山において烏はミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)として信仰されており、八咫烏と金鵄は、大陸に由来し、しばしば同一視ないし混同される。日本神話に登場する八咫烏は単なる烏ではなく太陽の化身と考えられ、信仰に関連するものと考えられている。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)には烏が描かれている。

『新撰姓氏録』では、八咫烏は高皇産霊尊の曾孫である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後、鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとする。奈良県宇陀市榛原の八咫烏神社は建角身命を祭神としている。

八咫烏は『日本書紀』や『古事記』に登場するが、『日本書紀』には、やはり神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が登場する。金鵄は、長髄彦との戦いで神武天皇を助けたとされる。

八咫烏の3本足の意味には諸説ある。古事記や日本書紀には3本足であるとは記述されていない。中国では古代より道教と関連して奇数は陽を表すと考えられており、中国神話では太陽の中に棲むといわれる。

現代では、日本サッカー協会のシンボルマークの意匠として八咫烏が用いられていることですっかり有名になった。これは1931(昭和6)年に採用されたものであり、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の漢文学者であり、日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した内野台嶺らの発案を基に、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助(内野台嶺の東京高等師範学校の先輩でもある)に敬意を表し、出身地である那智勝浦町にある熊野那智大社の八咫烏を元にしたものである。

八咫烏の出現はきわめて古く、『古事記』『日本書紀』『延喜式』を始め、 キトラ塚古墳の壁画や福岡県珍敷塚古墳横穴石室壁画、千葉県木更津市高部三〇号噴出土鏡、世界最古の油絵である玉虫厨子(法隆寺蔵) の台座にも見ることができる。

八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味。八咫烏は太陽の化身とされ三本の足がある。

この三本の足はそれぞれ天・地・人を顕わすと言われている。サッカー協会のマークに八咫烏が使われているのは、天武天王の故事に習い、 よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められていると考えられる。

旗竿のてっぺん、竿頭に金球を置くのは、そんなわけで日本でだけのこと。諸外国ではアメリカはハクトウワシ(白頭鷲)、韓国は無窮花(むくげ)の形、ほかの国では槍型、上下を切り取った球のような扁平型のもの、星型、三日月など、もし珍しいものがあったらメールしてほしい。


中村覚之助。
熊野の那智勝浦町出身で、明治末、東京師範学校(現筑波大学)にあって、 始めて近代サッカーを紹介し、全国に広め「日本近代サッカーの始祖」と呼ばれている。
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