クロワッサン物語③ 双頭の鷲の旗の下に


神聖ローマ帝国の国旗

トルコの国旗

クロワッサン伝説をどこまで信用するかは置くとして、そのもとになった、ウィーン包囲戦を振り返ってみよう。

神聖ローマ帝国(962~1806)は、現在のドイツ、オーストリア、スイス、リヒテンシュタイン、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、モナコ、クロアチア、スロベニア、フランス、イタリア、サンマリノ、チェコ、ポーランドに及ぶ最大版図を領域を持っていた。

ただ、次第に皇帝の権力が諸侯によって弱められ、最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになり、最終的には1906年、ナポレオンにより、名実ともに解体された。


ヤン3世

スレイマン1世

他方、オスマン帝国の中部ヨーロッパへの攻撃は,オスマントルコ第10第皇帝スレイマン(英語ではソロモン)1世(1494~1566)の治世(1520~66)に始まる。大帝と呼ばれることの多いこの皇帝の指導力と1世紀以上にわたりハンガリーの弱体化したことによる。神聖ローマ皇帝と争っていたフランス王フランソワ1世の要請によって,スルタンはハンガリーへ遠征し,1526年モハーチの戦で大勝し、ウィーンへと軍を進めた。

これに対抗したポーランド王ヤン3世ソビェスキ(1629~1696)が英雄として名を残している。王はウィーンと連携してかろうじてイスラム勢力の駆逐に成功した。国民からの信頼厚く、卓越した軍事的才能によってこの第二次ウィーン包囲で勝利して名を馳せ、敵のオスマン帝国に「レヒアの獅子」と呼ばれて畏れられた。アメリカの人気女優リーリー・ソビエスキはヤン3世の傍系の子孫だそうだ。1683年、トルコの軍勢はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、キリスト教諸国軍の連合を強めさせてしまい、失敗したのだった。この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国はその後も、16年間にわたる長い大トルコ戦争を戦った。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った条約として知られる1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。

この条約によりオーストリアはハンガリーとトランシルヴァニアを獲得、東欧に影響力を拡大した。三十年戦争(1618~48)でドイツから排除され、フランスの勢威に押されていたハプスブルク家は、これ以降、中東欧の新興大国へと成長していく。

逆に、オスマン帝国はその後、勢力が低迷し、さらには衰退の途を辿り、第一次世界大戦(1914~19)でドイツ、オーストリアと組んで敗れた。この大戦でオーストリア・ハンガリー帝国とオスマンの両帝国は名実ともに崩壊した。このあと、トルコはケマル・アタチュルク(パシャ)の指導による近代化でトルコ共和国として近代化を進めた話は世界史の教科書にある通り。

話が進み過ぎた。神聖ローマ帝国の国旗は「双頭の鷲」。「双頭の鷲の旗の下に」(英:Under the Double Eagle、独:Unter dem Doppeladler)は、ヨーゼフ・フランツ・ワーグナー(1856~1908)による行進曲。このワーグナーは、アメリカのスーザが「マーチ王」と言われるのに対し「オーストリアのマーチ王」。当時オーストリア・ハンガリー帝国の軍楽隊長であった時期に作曲したもの。曲名にある「双頭の鷲」はもともと神聖ローマ帝国のシンボルであり、帝政時代のオーストリアのシンボルであった。日本ではヨハン・シュトラウス1世の「ラデツキー行進曲」と並んで、運動会の定番マーチ。もっとも、最近でこそ、後者はウィーンフィルの「ニューイヤーコンサート」での、場内一体となった演奏でより知られるようになったが、「双頭の鷲の旗の下に」はこれと双璧いうべき欧州を代表するマーチ。

神聖ローマ帝国の名のもとにトルコの包囲戦を耐え抜いた人々が、「トルコの国旗の形をしたパンを食べて、溜飲をさげた」というこの伝承、信ずるかどうかはあなた次第ということのようだ。


第二次ウィーン包囲戦(1683)。
ポーランド・オーストリア連合軍がウィーンでオスマントルコ軍に包囲されたのを打ち破った大会戦。

オスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である第二次ウィーン包囲戦
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