在朝鮮日本公使が命がけで持ち帰った日章旗

1982(明治15)年7月23日、朝鮮の漢城(今のソウル特別市)で暴徒と化した朝鮮人兵士の暴動が起こり、在朝鮮日本公使館が襲撃され、館員らが多数殺傷された(壬午事変)。

すなわち、館内にいた、朝鮮政府に招聘された陸軍の堀本禮造中尉、公使館の職員・巡査、語学生徒、私費留学生など計14名が殺害され、負傷者も多数にのぼった。

このとき(1842~1917)公使は命からがら公使館を抜け出し、重要書類とともに長崎に持ち帰ったのがこの「日章旗」。1886年に外務省から靖国神社に寄贈され、現在、同神社の遊就館に展示されている。

大きさは、縦215cm×横295m。但し、日章の径が90㎝とやや小さい。1870年の太政官布告第57号に準拠するなら129㎝(縦の5分の3)あっていい。率直に言ってこれではデザイン的に貧弱である。

花房は緒方洪庵の適塾の出身。幕末に欧米に約1年遊学。1870年から外務省に出仕。清国との関係などを担当する。国際法の授業で必ず出てくる、「マリア・ルース号事件」(1872年にペルー船で清国人が奴隷として虐待されていることに日本が公正な態度で臨み解決した一件)で副島種臣外務卿を補佐し、代理公使としてサンクトペテルブルクに派遣され、仲裁裁判に対応した。訴訟の後も残留し、折から進められていた日露国境画定交渉で榎本武揚全権公使を補佐し、樺太千島交換条約締結(1875)関わる。77年、駐朝鮮代理公使に任命されるが、日朝修好条規に反して朝鮮政府が釜山に税関を設置したことから、花房は軍艦と共に釜山に派遣され、税関の撤去を要求する。最終的に、1878年12月、税関は撤去された。

80年4月、日本政府は漢城への日本公使の常駐化を決定、花房が初代公使に任命される。その後、花房は朝鮮に駐箚し、朝鮮軍近代化のため別技軍の創設を提案するが、それが原因となった壬午事変では暴徒に包囲された。からくも公使館を脱出して帰国、直後に寺内正毅率いる日本軍と共に朝鮮へ渡り済物浦条約を締結させ、事件の損害補償とともに、漢城への日本軍駐留などを認めさせる。

翌1883年より1886年まで在露特命全権公使、以後、農商務次官、帝室会計審査局長、宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長などを歴任した。

実は、拙宅は数年前まで目黒の花房山(品川区上大崎三丁目付近)にあったが、そこは1911年に花房が子爵に叙せられた際に別邸を構えたことが地名の由来であり、韓国、ロシア、北方領土、赤十字とさまざまな縁を感じ、個人的には強い関心を持ってきた人物である。

以下は遊就館の説明。

この時の殉難者のうち公職にあった12名が、同年11月5日、靖国神社に合祀された。翌年の7月23日(事件から1年目の日=吹浦)から毎年、関係者が靖国神社で慰霊祭を行い、後年、花房元公使は多額の寄付金を添えて永代祭祀の執行を神社に申し込んだ。

殉難事件後、歳月を経たこの国旗は、汚損はなはだしきものがあるが、繕いのあとも見え、往時、朝鮮公使館職員が屋異説にし、異国にあって毎朝夕の掲揚降納をくりかえされていたことを伺わせる。


花房義質
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