戦後の「日の丸」掲揚禁止と代用の旗について②

敗戦直後の9月16日、米太平洋艦隊連絡団覚書が日本側に通達された。これは、日本船籍を示す商船旗としては常に、国際信号旗のE旗の先端を三角形に切り取った旗を使用するようにという内容であった。これでは遠くから見たら、フィリピン、さらにはハイチやリヒテンシュタインの国旗と酷似してしまう。特に、南の隣国フィリピンの国旗とは酷似した印象を持ったのではあるまいか。もしかして「マッカーサーがフィリピンでの恨みをこの信号旗で
かも(というのは読み過ぎ?)。


占領下の日本船舶が「日の丸」の代わりに掲げさせられたフィリピン国旗を思わせる国籍表示用旗。

当時の米国旗。
48星の時代はアリゾナ、ニューメキシコ両州の成立を受けて、1912年から59年まで続いた。
変更はいずれも7月4日の独立記念日。

マッカーサーはフィリピンと日本をよく知っていた人物。それでも、1937年12月にアメリカ陸軍を退役し、後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けていたことはよく知られている。

太平洋戦争では1942年3月、日本軍に攻め込まれた揚句、バターン半島に追い詰められコレヒドール島からの脱出を余儀なくされ、「I shall return”(私はこの地に戻って来る運命にある)」と言い残し、家族や少数の幕僚、そして50万ドルもの賄賂で動向を希望したケゾン比大統領と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出した。そこからはパイナップル畑に隠していた秘密の滑走路からボーイング B-17 でオーストラリアに飛び立った。

米軍内では日本軍の攻撃を目前に敵前逃亡に等しい行動をとったことは、たとえ、マッカーサーが捕虜になっては全軍の指揮に関わるとみた大統領からの命令があったとしてもその軍歴上、大失態となった。その後も彼の軍歴にはこの汚点がついてまわり、自尊心を大きく傷つける結果となった。このため、ひたすらフィリピンへの反攻を企図し、1944年10月24日にレイテ島への上陸を果たし、日本軍を殲滅することはできなかったが、対日戦勝利の英雄として、その名も「バターン号」で1945年8月30日、厚木飛行場に降り立った。日本人の精神年齢を「12歳」するなど、人種差別観の特に強い人物であったようだ。

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