占領期の北朝鮮国旗の掲揚運動<Ⅴ>

孫 文圭朝鮮大学校教授の講演録、最終回である。


北朝鮮の国旗

国旗掲揚事件の犠牲者への救援活動

禁止命令の不当な適用に対して直ちに幅の広い抗議運動が生まれました。国旗禁止命令が出された翌日の10月9日にすでに、朝連中央の代表が対日理事会の各国代表を訪問して、同命令の撤回を求めています。具体的にはアメリカ、ソ連、中国、英連邦の代表に会って、「禁止命令はポツダム宣言に違反する不当なもの」として、「このような命令が本当に出されたのか」「その根拠を明らかにしろ」と追及したわけです。

当時のGHQ関係者は「総司令部側は出していないが、地方軍政部は出したのかもしれない」というふうに逃げました。と同時に「われわれは北朝鮮国旗の掲揚には賛成できない」というニュアンスの発言をもしています。とにかく「総司令部は関係ない」という情報が同胞たちに広まっていく結果、禁止命令の権威は低くなって、命令自体は怪しいものだという認識が強まっていったと容易に推測できます。

それ以外に、朝連系諸団体や組織による積極的な抗議行動が展開されていきます。代表的なものは、朝連の第5回全国大会の代表団による日米当局に対する抗議運動です。そのなかで代表団が検察局に訪ねて岡本という検事に会い、「警察は国旗を没収しているが、その法的根拠は何か」と追及しました。それに対して岡本検事の回答は「自分たちはそのような命令を出していないし、出す権限もない。ただ米軍政部から北朝鮮の国旗を揚げてはいけないという指示が出されている」というものでした。そこで朝連の代表は「だったら、警察がわれわれを逮捕するのは不当」と言い返して、抗議を徹底させました。また、仙台の国旗事件では現地に真相調査団を派遣したりして積極的な活動を切り開きました。

もうひとつは国旗事件の関係で弾圧された犠牲者を救援する活動です。禁止命令に違反して逮捕される者に対して米軍政部は軍事裁判をかけました。同命令の法的根拠の問題もあるのですけれども、結局、軍事裁判で処理する方法をとりました。「勅令311号」による処罰は実際問題として成り立たず、一切行なわれなかったのです。

当時、在日朝鮮人の生活が苦しかったので救援活動は困難を極めました。「益田事件」などの新しい大問題が次々と出てくるなかで、国旗事件には手がまわらないという事態も生じました。

しかし、1949年3月かと思いますが、大阪で民青全国大会が開催されました。そこで民青は愛国青年賞というものを作って、国旗事件の関係で獄中にいる逮捕者に「愛国青年賞」を贈るという運動が行なわれています。そのときに代表として賞状を受けたのが、大阪の東成支部の国旗事件で活躍した高 泰順という少女ですが、朝連中央の幹部が大阪を訪れて、直接他の逮捕者たちにもその賞を手渡して激励しました。

こうして、GHQと日本警察の弾圧がかえって在日同胞のなかで、国旗に対する認識、共和国への忠誠心や支持をいっそう強めるようになったのです。

アメリカの占領政策の反動化と国旗掲揚闘争の深化

1949年に入るとアメリカの対日占領政策がますます反動化していきます。民主勢力、在日朝鮮人運動、特に国旗掲揚活動に対する弾圧も露骨化していきます。これは裏を返せば、朝鮮戦争を準備する一環として行なっただろうという捉え方を私たちはしています。

1949年の年頭、マッカーサーは声明で「日の丸」を掲揚する自由を発表しました。日本国旗の掲揚は無条件で自由になったのです。

そうした声明が公式に発表されてから、第8軍は同旨を書面の指令で出しています。それに対して、在日同胞から「占領されている日本の国旗掲揚は許されているが、共和国の場合はだめだというのはおかしい」という強い疑義が申し入れられました。これに対して、第8軍軍政本部を中心に禁止命令の法的裏付けを文書でもっと明確にすべきという見解が出されて討議されるようになります。日本関係者もその議論に参加していきます。口頭命令ではなく、公式な文書を出そうと、軍政本部の法務官の意見が一致しました。彼らは日本警察が在日同胞を取り締まるためには禁止命令を覚書きという形で成文化する他ないと考えていたわけです。

しかし、GHQと第8軍軍政本部との議論のなかで、GHQ側から文書化は共和国の存在を実質的に認める危険性をはらんでいるという憂慮が再び現れてきます。「文書を出すな」「出したい」というGHQと第8軍の間に活発な意見交換が行なわれました。軍政本部としては、書面の禁止命令なしに日本側には掲揚活動を処罰する根拠もないから、問題が起きるたびに第8軍が憲兵隊などを動員しなければならず、たいへんだという主張です。

日本警察も、朝鮮人に「根拠を示せ」と迫られて困るから、同命令の成文化を求めたのです。最終的には、第8軍は文案を出しますが、GHQが共和国の名称を使わずにと、強調し続けたのです。文案による国旗の説明は、「共和国国旗」という表記を避けて、「こういう形の国旗掲揚を禁止する」というあいまいな言い方になっています。そうした妥協案にもかかわらず、結局、書面の禁止命令は打ち出されなかったのです。

1948年10月8日の口頭命令はそのまま押し通されて、国旗掲揚への弾圧は内容的に広がりながら、ますます強化されていったことは事実です。

その後、朝連は、在日朝鮮人慶祝代表団の報告を受けて、1949年2月に第17回中央委員会を開きました。前年10月の第5回全国大会では朝連の活動(在日朝鮮人運動)を共和国と直結させる方針はまだ明確になっていなかったのですが、この委員会で、われわれの運動は路線上、明確に共和国に直結することになりました。朝鮮民族の指導者が金日成将軍しかいないという確信を明確にして、朝連はこの路線を同胞たちのなかに強力に浸透させていきました。

おわりに

上述した形で、今日の在日朝鮮人運動の原形が朝連時代に作られました。それは厳しい闘いのなかで結成されたために非常に強固な、簡単には崩れないものになりました。同胞たちの大きな精神的な柱として、朝連がその後の運動に絶大な影響をもたらしたのではないか、と私は考えています。

私は、在日朝鮮人運動は、朝連の時代に、基本的に組織的な面においても、思想的な面においても、大衆運動の形式が作り上げられたと思います。それは今日の総聯の運動のなかに脈々と生き続けているとも思います。総聯の活動が、今後厳しい状況のなかで生き続けるためには、1世のこうした闘いの内容を正しく継承することが大きな意味を持つのではないでしょうか。

もうひとつ私が言いたいのは、朝連の運動は、もちろん今は共和国を絶対支持することになっていますが、南北朝鮮の統一政権をめざす運動だったということです。その意味で在日朝鮮人運動が南朝鮮では評価されていないのは非常に不当だと思います。朝鮮民族の歴史上において当然評価されるべき運動だと私は感じています。

政権として共和国を支持したという形はとっていますが、日本国内の朝鮮人が自分たちの統一独立国家を求めて、その理念のもとで民族の自主性や諸権利を守りながら闘ってきました。その運動は、北と南とは関係なしに、民族史のなかで当然高く評価すべきでしょう。ここには私の多少の私見が入っていますけれども、とにかく朝連の成果と教訓を生かす形であれば、総聯の愛国活動は、今後とも紆余曲折はあっても、絶対に困難に打ち勝っていける確信をもっています。

[1](ソン・ムンギュ、『共和国の主権を擁護するための在日朝鮮同胞のたたかい』金日成総合大学出版会、1997年)。
[2]この点について、本研究会のロバート・リケットは、「誰がやったのかを確認する努力をしたが、証拠がない。マッカーサーが知らなかったはずはないが、GⅡのウィロビーの可能性も大いにある」という推測を述べた。
[3]筑摩書房、1963年、下、188頁。
[4]住本和男、毎日新聞社、1965年、208頁。
[5]資料2を参照。

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