占領期の北朝鮮国旗の掲揚運動<Ⅳ>

孫 文圭朝鮮大学校教授の講演録を続ける。


北朝鮮の国旗

各地の国旗掲揚闘争とそのヴァリエイション

最後に、各地の闘争について簡単に触れておきたいのです。

マッカーサーの厳しい禁止命令のもとでも、在日同胞たちは国旗掲揚闘争を引き続き展開していきました。そのなかで10月9日の神奈川県大会は特に重要なものでした。大会の前日、米軍憲兵隊と横浜市警官が朝連神奈川県本部を襲撃して禁止命令を通告し、同大会のスローガンを押収したという事件が起こりました。そのために慶祝大会は国旗を掲揚しないで行なわれました。にもかかわらず盛大な大会として、200台の自動車による大規模な行進が組織されました。これを機に、同胞たちが国旗掲揚闘争を全国的に展開する突破口にしていった、ということがこの大会の重要な点です。

そういう状況のなかで10月9日以降、全国的に慶祝大会と国旗掲揚闘争が盛んに取り組まれていきました。そのなかで代表的なものがいくつか挙げられます。まず、山梨県は小さな県ですが、朝連の県本部が禁止命令を受けたのですが、再度にわたって米軍当局と日本警察に国旗掲揚を求める要請運動を続けながら、大会の準備を進めています。そこで県の米軍政チームと日本警察は、朝連の慶祝大会に対する圧力を加えるためにさまざまな妨害措置を整えています。そのことは山梨県国警本部長が作成した文書でGHQに報告しているのですが、そこには大会で誰が演説したのかという細かいことまで書き記されています。なかには民団の代表たちが会場に入り込んで妨害しようとしたとか、暴力団を送ったなどの妨害工作も掲載されています。そうした状況のなかでも山梨県の同胞たちは最後までがんばってやりとおしたのです。大会の議長の発言には、自分たちが今回は国旗を掲揚できなかったが、必ずやいつかは掲揚できるようになるという意思表示もあります。

次に、10月17日の中央慶祝大会ですが、この大会においても結局、国旗掲揚はできませんでしたが、それは混乱をさけるためでした。しかし、同大会では国旗の模様をアレンジしたものを作ったり、あるいは舞台の中央に金日成首相の肖像画を掲示したりして慶祝大会を成功させました。

その少し前に、10月11~12日に仙台の国旗掲揚闘争が起こりました。このときは在日同胞たちが米軍と衝突し、発砲事件も発生して、激烈な戦いがやりぬかれました。この内容はもうご存じかと思います。

東大阪東成支部慶祝大会でも国旗掲揚闘争が行なわれています。ここでは禁止命令が出されていることを知っていながらも、同胞たちが国旗を見たいという要望に応える形で、集会の終わりに関係者2人が演台に上がって国旗を2分間広げて、掲揚闘争に立ち上がるように訴えたのです。

次に、大阪の学生同盟(学同)の慶祝大会での国旗闘争です。この場合には、慶祝運動大会が開催されましたが、事前に淀橋警察署から禁止命令があるので国旗掲揚はだめだという「示達書」を受けています。にもかかわらず学生同盟は正式に国旗を2分間ひるがえしてから、すぐ降ろしたという形で掲揚闘争を遂行しました。現場では米軍憲兵隊と警官が監視していたそうです。

慶祝大会以外にも朝連系の各種団体の定期大会においても国旗掲揚闘争が広がりました。禁止命令が出された直後のことですが、10月11、12日の2日間、在日本朝鮮民主女性同盟(女同)の全国大会で国旗掲揚闘争が行なわれました。会場のなかで掲揚していたので、日本警察は最初分からなかったのですが、通報があって途中から国旗の撤去を要求して警官が大挙して乱入してきました。女性の代議員たちは最後はスクラムを組んで国旗を守りながら、急きょ大会を終了させたことで弾圧を避けたという運動でした。

また、朝連の第5回全国大会(10月14~16日)でも国旗掲揚闘争がありました。この場合においても占領軍当局や日本警察が掲揚活動を予測して、前日に朝連中央総本部の社会部長を警視庁に呼び出して、国旗を絶対に見せてはいけないと指示しています。それに対して朝連の代表者は「分かったが、自分個人では掲揚をやめさせる約束はできない」と答えています。そして大会当日、国旗の掲揚を実現しています。最初は日本警察が介入しようとしたけれども、とても踏み込める状況ではなかったので、GHQと協議したうえ、多数の警官を会場に突入させて、実力で国旗を撤去したというのがこの大会の真相です。

その少し後に起こりましたが、10月21~22日の民青大阪本部の定期大会での国旗闘争もありました。ここでも激烈な闘争が行なわれて、幹部十数名が逮捕されました。

このようにして国旗を実際に広げる闘いのなかで、たくさんの犠牲者が出てきました。この結果、国旗を守る闘いをどういう形で展開すればいいのかということが問題となりました。国旗を掲げない形で国旗を守る闘争もありうるのではないかということになったのです。

主に4つの形式があります。

第1に、国旗の代わりに大会の名誉議長として金日成首相の名前や肖像画を掲揚するという動きです。例えば朝連石川県の慶祝大会では、国旗の代わりに金日成首相の肖像画と名前を大会の中央に掲げて大会を成功させたことが警察やGHQの文書を通して確認できます。その形式は各地に普及していきました。

第2に、同胞の家庭内で国旗を掲げる運動も出てきます。GHQの文書には「朝連側には禁止命令を無効化させる動きがある」という記述が見られます。朝連中央が、家庭内で国旗を掲げることで日米官憲に見つからないように国旗闘争をやり続けることを指示したとのことです。

第3に、ポスターを掲示する運動が現われてきます。これは国旗に似たようなポスターを作って、国旗の代わりに使用するというものです。これは11月12日の東京朝鮮少年団の大会で実現されました。

第4に、国旗のバッジを作って「国旗ではないから」という理由で、それを普及させる運動も行なわれました。そのなかで、滋賀県の「国旗バッジ事件」とか、「解放運動救援会の事件」が発生しました。バッジが星印で国旗によく似ているためにそれも弾圧の対象になったわけです。

最後の例は、1948年12月に山口県で行なわれた国旗掲揚運動です。共和国の公民としての生活権、外国人としての法的地位・生活保障を求める運動として、大々的な国旗掲揚闘争が広がりました。この場合も同胞たちが1致団結して最後まで国旗を守りました。このとき、国旗を掲揚したその責任が問われた朝連の崔民煥委員長を逮捕するために多数の武装警官や米軍の戦車さえも出動されましたが、在日同胞は最後まで守り通したのです[5]。

1949年に入るとこのような試みすらできにくくなっていきますが、在日同胞はいろいろな形で国旗を守る運動を展開して、日本占領が終わる1952年4月末まで継続させていきました。

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