占領期の北朝鮮国旗の掲揚運動<Ⅲ>

孫 文圭朝鮮大学校教授の講演録を続ける。


北朝鮮の国旗

禁止命令の違法性

禁止命令が実行されるなかで、たくさんの問題点が提起されています。例えば、京都米軍政部より命令を受けた現地の日本関係者は、これは法的に疑わしいという反応を示したのです。普通なら、GHQから日本側に文章で正式な指令がきて、そこで日本側はそれを法文化して警察などに通達しますが、今回はそういった形跡もなく、禁止命令が一方的に出されているので、法的には大きな問題が含まれているだろうという危惧を抱いたことが明らかになっています。ともあれ、京都終戦連絡地方事務局の担当者たちは、疑問をもちながらも、命令にしたがったのです。

しかし、占領軍当局は、そういうためらいを完全に無視して、最初の命令では旗とポスターだけを禁止していましたが、10月18日頃になるとバッジもだめだという形で強化していきます。次の段階では、国旗を表示するカット類を含めて、共和国旗に類似するものも一切だめだというように、規制の内容をますます拡大していきます。

そのなかで、例えば広島の場合は、地方軍政部から国旗禁止命令を受けながらも、朝連は、それは法的根拠がないという掲示物を出したのです。そのために日本警察と朝連関係者との間に激しい論争がまき起こって、朝連側が一切禁止命令を受けつけないという状況が一時、発生しました。そこで広島県軍政チームが第8軍軍政本部に対して、禁止命令の法的根拠を示す文書を送るように要求したという資料に残っています。そのように問題点を含みながら禁止命令の強要が行なわれていったのです。

次に、国旗禁止命令の不法性について検討してみたのですが、そこでは3点において問題があります。

第1点は、禁止命令は、日本占領管理の正規の手続を踏まず、占領軍が作り上げた民主主義的な秩序をも蹂躙した不法な命令だったということです。普通なら、占領軍当局は、「ポツダム命令」の覚書を作成し、その写しを極東委員会ならびに連合国対日理事会に送付して、場合によってその討議を経て、正式な文書で日本政府に通告して後者がそれを法的に実施する、というプロセスです。しかし、禁止命令は、そのような手順を踏まないで一方的に出されたものです。これは、GHQの占領政策に自らが違反しているということになるでしょう。これが禁止命令の不法性の第1点です。

第2点は、国旗禁止命令は、口頭命令という形で出されたことです。これは、占領軍側がこの問題を国際問題として取り上げられるのを非常に恐れていたことを意味するのでしょう。そもそも口頭命令というのは、占領軍の意向が占領政策・ポツダム宣言と合わない場合に、自分たちの意向を強要するための常套手段だったと思います。

例えば、マーク・ゲインの『ニッポン日記』[3]のなかに口頭指令について、次のような内容があります。要するに、GHQは日本政府に対して、なぜ実際的な指令を出さないでいるのかと、外国人新聞記者は互いに疑問を持っていたが、その真相が明らかになった。マッカーサー元帥が対日理事会の機能を麻痺させる決心を持っているからだと。本来、指令は参考文献として必ず対日理事会に送られて、そこで討議される場合もある。しかし総司令部は新しい手法を考え出した。民政局(GS)局長のC・ホイットニー少将は日本の官吏を呼び出して、彼らの前で日本政府への指令を読み上げる形で命令する方法を選んだ。そのために書面の指令が1件も日本政府に届かず、対日理事会にはもちろんそのような情報が一切入らなくなるというやり方です。

もう1つ、『占領秘録』[4]にも同様の指摘があります。部落解放運動の指導者松本治一郎の公職追放について、次のように書かれています。簡単に言えば、アメリカ側が、万一、追放命令を文書で出すとすれば、それは証拠物件になりうると。そうすると、対日理事会に批判の材料を提供することになるし、国際問題になりかねない、という考え方です。

こうしてみると、国旗掲揚禁止令も同じ口頭命令という不法な形で出されていったと思われます。例えば1948年11月1日に朝連中央総本部が禁止命令の不当性を訴える提訴文、アピールを対日理事会に提出しています。ところが同理事会で一切取り上げられていません。対日理事会に送る一方で、朝連の代表がそれぞれの代表に会って文書を渡しています。「分かった。その問題を討議してみよう」となっていましたが、実際には対日理事会ではこの問題は扱われていません。なぜこれを議題として取り上げられなかったかというと、国旗禁止命令自体が公開されておらず、アメリカ側が他の連合国の関与を恐れていたからでしょう。言いかえれば、これは米軍内部で処理すべき問題であって、対日理事会で討議する問題ではないと。命令が覚書として存在していないだけに、資料がないから討議しようもない、ということだったと私は推測しています。

もう1つ、この件に関連していますが、1949年9月8日に朝連が解散させられてしまいました。そのときに朝連の幹部がワシントンにある、連合国の最高決定機関だった極東委員会に解散の不当性を訴える文書を送っています。当初、極東委員会のアメリカ側の事務局長がそれを極東委員会の各国代表に配ったそうです。ところが後で、これはマッカーサーを非難する文書だということが分かって、あわててそれを回収して、この問題を一切扱わずに処理したということをアメリカ政府がマッカーサーに報告しています。このように、国旗禁止命令問題をアメリカ側はできるだけ外に出したくなかったのです。それは自らが共和国の存在を国際的に認めたと捉えうるため、避けたかったのでしょう。

第3点は、日米治安当局者たちが国旗掲揚を取り締まる方法として、「勅令311号」(占領政策の目的に反する行為)を適用して違反者を処罰しようとしました。1948年10月30日だったと思いますが、在日本朝鮮学生同盟(学同)関東本部主催の慶祝大会で学生2人が逮捕されました。これは「勅令311号」の違反で逮捕されたと占領軍当局が主張しました。しかし、実際に後で確認してみると、占領目的に反する行為であれば、アメリカ側が正式な書類を日本政府に送付して、政府が法律を適用して、取り締まるという手続きです。ところが、実際は国旗禁止命令はこの点についてはあいまいなので、占領軍当局が「勅令311号」でもって弾圧を加えてみたり、後でそれを取り消して違う罪名で処罰してみたりして、臨機応変的に発動しようとしているわけです。

このように国旗禁止命令は法律的には大きな不備があって、不法なものでした。占領軍当局は不法な手段で在日朝鮮人、朝連の活動を弾圧していったのです。共和国国旗掲揚の禁止命令は、朝連を解散させるための準備段階として強行されたと思われます。

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