この旗はどこの国旗?


前回紹介した『Flaggenlexikon(Ralf Stelter著)』の表紙の真ん中に出てくる旗。

前回の設問への答えです。ノーフォーク島の旗です。

ノーフォーク島の北部は標高の低い山地で最高地点はベイツ山(318m)とピット山(316m)。島の南部は標高の低い緑豊かな丘がほとんどで、牧草が生えています。ノーフォークマツ(ノーフォーク松、パインツリー)が島のあちらこちらに生い茂っていることで知られています。それがこの旗に描かれている樹木です。

ノーフォーク島といえばこのノーフォークマツの原産地として知られています。オーストラリアやハワイのラナイ島などにもありますが、原産地は、ノーフォーク島。クックは丈夫でそうで大きなこの木に感心して、新しいマストを作って乗船エンデバー号の壊れたマストに替え、再び航海に出ました。

ノーフォーク島の最初の居住者はポリネシア系の人々です。バナナの木と石器を持ち込んで12世紀に住み着いたのでした。ある程度の期間居住しことが考古学上明らかですが、1774年に英国の探検家ジェームズ・クックの発見したときには無人島でした。今となってはその原因は判りません。

クックは自分を支援してくれたノーフォーク公爵の名に因んでこの島に命名し、岸辺に亜麻が密生し、内陸にノーフォーク松が覆っているのをみて、この島が産業的にも海軍の資材補給地としても有望だと考えたといわれます。

報告を受けたイギリス本国では、南太平洋に勢力を伸ばす上での戦略的拠点になりうるとして、この島に期待をかけました。それ以前に、ニュージーランドでマオリ人の抵抗にあったことが、早々に植民地にしてしまおうとの計画立案を促進し、1788年にはポートジャクソン(オーストラリアの今のシドニー付近)から囚人の一団が移送され、イギリスの流刑殖民地となりました。

1788年4月にはわずか23人の人口に過ぎなかったノーフォーク島でしたが、1794年7月までにはたちまちにして1149人(うち囚人は443人)に達しました。

しかし、この島には弱点が3つありました。①ノーフォーク松はその後の経験からいうと船舶のマストに向かない、②亜麻と見えたのが実は別種のマオランで、品質面で亜麻よりかなり劣っている、③天然の良港がなく、植民地としての見通しは立たないことが明らかになったのです。このため、1804年から人口は次第に減少し、ナポレオン戦争が終わった頃には英国はこの島を事実上、一時、放棄し、この戦争で新たに獲得した地域の開発に人も資材も移したのでした。

再開されたのは1825年。その後、56年までに流刑地として存続していました。オーストラリアが流刑地でなくなるに従いノーフォーク島も流刑地でなくなり、バウンティ号の反乱者の子孫194人が1856年にピトケアン島から移り住み、それ以来ピトケアン島民がノーフォーク島の主要な定住者となりました。

バウンティ号の反乱については多くの物語や歴所がありますから詳述は避けます。1789年4月4日にタヒチ島を出航した同号は、喜望峰経由で西インド諸島を目指しましたが、4月28日にトンガのフレンドリー諸島で反乱が惹起しました。乗組員44人のうちクリスチャン以下12人が反乱を起こしたのでした。これにより、ブライ艦長以下19人は救命艇で追放され、反乱に加わらなかった者のうち13人は船に残されたのでした。ブライたちは苦心の末、41日かけて、チモール島に辿り着きました。

一方、反乱者を乗せたバウンティ号はその後タヒチ島へ向かい、16人がタヒチ島に残り、クリスチャンと8人の反乱者はタヒチ島の現地人をたぶんに強引に乗船させ、フィジー、クック諸島を経て、1790年1月15日にピトケアン島にたどり着いたのでした。そこで、クリスチャンらはバウンティ号を解体し、その資材を利用して家を建てるなどし、生活を始めました。その後、ピトケアン島の人口は増え続け、1856年には194人余りがイギリス政府により、無人島だったノーフォーク島に移住させられました。ピトケアン島より大きく住みやすかったので、ノーフォーク島にとどまる者も大勢いましたが、ピトケアン島への帰還した人たちもいました。

1937年にはバウンティ号の船員とタヒチ人の子孫233人が住んでいたが、その後、ニュージーランド、ノーフォーク島等に移民し、現在は47人しか残っていないそうです。ピトケアン島の前村長、スティーブ・クリスチャンはフレッチャー・クリスチャンの子孫。

オーストラリア本土からノーフォーク島への移民は第二次世界大戦後に増加しました。1979年にはノーフォーク島法により立法評議会が設立されました。

今では観光業がノーフォークの最大の産業ですが、同時にこのノーフォーク松の輸出も盛んです。


ノーフォーク松。ウィキペディアより。

1991年にはオーストラリア連邦の州の一部になる事を拒否し、独立性を強めました。

バウンティ号の反乱は小説にも映画にもなりましたが、南太平洋は言ったこともありませんし、地理的になかなか実感がわきません。こういう旗からいろいろ思いを起こしているほかありません。

周辺の国旗には①太平洋を表す青、②南十字星を描いた国旗が多いという特徴があります。それは次回に。

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