日本の国旗になりかけた中黒の旗

2月1日、親友の墓参りの帰路、久々に名古屋の徳川美術館を訪問した。日本庭園を含む広大な敷地に驚くべき宝物が収納されている。見学は1日がかりであるということがいまさらながら解って退散した。

それはそうと、その玄関前に3つの旗が掲揚されていた。中央に国旗、左に徳川家の葵の紋3つの幟、右に葵の紋1つと「中黒」2つ。

実はこの「中黒」、もしかしたら日本の国旗になりそうだった。「中黒」というのは白地に黒の横一文字の標であり、徳川氏の先祖とされる新田家の紋章であり、旗である。

1854(嘉永7)年3月の日米和親条約調印にあたって、ペリーは31星の並んだ「星条旗」を掲げて上陸したが、応接する日本には国旗がなかった。そこで、以後、外国船と区別するための標識として、「日本惣船印」を制定することになった。幕閣は当初、徳川家の先祖とされる新田家の「中黒」を日本惣船印にと考えていた。しかし、薩摩藩主・島津斉彬が「日の丸」をと提案し、外様の身ゆえ、幕府海防参与・徳川斉昭を通じ幕府に強く進言し、同年7月9日、老中筆頭・阿部正弘により「日の丸」が「日本惣船印」として布告された。

島津斉彬は、元旦に鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽に感動し、これを国旗にしようと家臣に述べたといわれている。詳細は、拙著『知っておきたい「日の丸」の話』(学研新書)、『「日の丸」の履歴書』(文藝春秋)、『「日の丸」を科学する』(自由国民社)など。

翌1855(安政2)年、斉彬は洋式軍艦「昇平丸」を幕府に献上するが、このとき国旗として初めて「日の丸」が船尾に掲揚された。斉彬や斉昭の奮闘なくしては、たとえ、ソチの冬季オリンピックで協力隊の高梨が女子ジャンプで優勝しても、「日の丸」は揚がらなかった。

ペリー来日時の米国旗
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