正岡芸陽が見た「星条旗」の半旗は?

「半旗」という言葉は、弔意を表すために国旗などを一度、竿頭まで揚げた後、竿全体の高さの3分の2くらいまで降ろすことを言う。

その「半旗」という言葉、『日本国語大辞典』(小学館)に拠れば、1890(明治23)年11月25日の東京日日新聞(現・毎日新聞)に「右につき昨日、各国公使館は半旗の忌礼を表し」とあるのが古い引例だ。 ところがこの「右につき」が私には見えてこない。近々、国会図書館でこの新聞そのものを見て、報告したい。

他方、正岡芸陽(1881~1920)という明治時代の評論家,ジャーナリストが『米国見物』というルポ記事を1910年に著し、その中の一節「大小の両極端」で「之に拠て各戸半国旗を掲げ、此日だけは鳴物を禁じ」とある。芸陽について、浅学菲才の私は何も知らなかった。

そこで、朝日新聞歴史人物事典を引くと、この人は<広島県生まれ。本名猶一。13歳のときにキリスト教の信仰に入る。青山学院に学び,明治32(1899)年,雑誌『新声』の同人となる。このころより,『嗚呼売淫国』『人道之戦士 田中正造』『裸体の日本』などの著作を発表し注目を集めた。36年『新声』の主筆となった。38年『やまと新聞』からポーツマス講和会議に特派された。40年,吉弘白眼の『大阪日報』の主筆となった。一貫して人道主義の立場から社会批判を行った。<著作>「明治社会主義文学集2」(『明治文学全集』84巻)>という人物なのだそうだ。


ユタの州昇格で45星になった「星条旗」
1896.7.4~1908.7.3までの12年間。

オクラホマの州昇格で46星になった「星条旗」。
1908.7.4〜1912.7.3までの4年間。

クリーブランド大統領(1837~1908)

推測すると、こちらは1908年6月24日にプリンストンで亡くなった、米国第22(1885~89)、24代(1893~97)大統領グロバー・クリーブランド(間隔を置いて2回大統領になった唯一の米国大統領)の逝去時に、芸陽が居合わせたもののようだ。つまり10年以上前に退任した大統領の逝去に居合わせたとき、米国の各家庭が「星条旗」を「半国旗」にして、その死を悼んだということのようだ。

ただ、亡くなったのは6月24日、10日後には、国旗「星条旗」の星の数が1個増えて46個になっている。半旗にしたのは、さて、どちらだったのだろう。

今では「半国旗」は死語か、もっぱら「半旗」を用いる。

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