国旗のある風景 – 「赤の広場」でのルイ・ヴィトンの展示館

29日付の露紙コメルサントに、同社代表のマイケル・バーク氏は「正直に言って、この2日間、モスクワで起こったことが理解できない」と懸念を表明。一方で、場所を移して行う展覧会について「成功を収めるだろう。なぜなら(今回の騒動で)展示館への関心が数倍高まっているからだ」と述べている。


産経新聞佐々木正明特派員(写真も)ほかによるモスクワからの記事によれば、「赤の広場」に特設された高級ブランド「ルイ・ヴィトン」の巨大展示場(高さ約9メートル、幅約30メートル)が撤去されることになった。

聖ワシリー大聖堂から臨む「赤の広場」。右がグム百貨店、左に「レーニン廟」が見え、その後ろに接してクレムリンがある。
写真はウィキペディアから。上の写真とは向きが逆。

この巨大展示場は、モスクワの中心部クレムリンに隣接する「赤の広場」に面しているグム百貨店の創業120周年を記念して、「ルイ・ヴィトン」の関連会社が設置。12月2日から来年1月半ばまでオープンする予定だったが、「ロシアの神聖な場所を汚すべきではない」などと批判の声があがり、撤去が決まった。

展示館にはご覧のようにロシア国旗が大きく描かれているが、「赤の広場」といえば、1991年12月末、ソ連邦が解体したとき、この広場いっぱいに白青赤の横三色旗の帝政ロシア時代と同じ国旗が広げられたことが思い起こされる。

長さは695m、平均道幅は130m、面積は7万3,000㎡もあるので、あの時の国旗は推定で90×200mくらいはあったのではあるまいか。

「赤の広場」はロシア語でКрасная площадь(クラースナヤ・プローシシャチ)。

クラースナヤという言葉は「赤い」と同時に「美しい」を意味し、共産党が支配したから「赤の」というわけではない。

「赤の広場」はソ連時代にも、いやその前から、モスクワのシンボルだった。レーニン廟と共に社会主義体制の聖地とされ、ソ連が崩壊した1991年には世界遺産に登録された。政治体制が変わった現在では、商業目的でも使用できる。ソ連邦の崩壊で尖塔に翻る国旗も劇的に変わったが、それでも、一時、論議されたとはいえ、「レーニン廟」は依然そのまま設置されているし、スターリンや片山 潜の墓も城壁の前に設置されたままである。

これらに対面する位置にあるグム百貨店は、10年ほど前までは老醜をさらす風情であったが、今世紀になって美観を取り戻し、いまや、ブランド商店が並び、往時はかくあったかという秀麗な百貨店となっている。

「赤の広場」は様々な歴史を持つ。1941年の軍事パレードに参加した部隊がそのまま独ソ戦の最前線に直行するという事態になり、45年の勝利にあたっては、ナチス・ドイツの国旗や軍旗を取り集め、ここで、焼いたり踏みつける勝利の式典が行われた。1987年5月28日には、特段の政治的な意図がなく、西ドイツの青年マチアス・ルスト(当時19歳)がセスナ機を操縦してヘルシンキからこの広場に強行着陸する事件が起きた。

ソ連末期の1990年には、クレムリンと共にユネスコから世界遺産に文化遺産として指定され、1991年に登録された。

セスナ機事件の翌1988年に公開されたアーノルド・シュワルツェネッガー(後のカリフォルニオア州知事)主演の映画「レッドブル」では、アメリカ映画として初めて撮影許可が下りた。また、1993年5月に、山本寛斎が12万人を集めるファッションスペクタクルを開催した。さらに、2003年には、ポール・マッカートニーがこの広場でコンサートを開いた。

「赤の広場」への注目はソ連時代にくらべて大きく減ったが、それでも時々、さまざまな視点から注目されるというのは、やはり「美しい広場」としてのこうした歴史を重ねているからであろう。

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