フィリピン共和国

フィリピン共和国の国旗
首都マニラ
言語フィリピン語、英語
人口94,013,200人(2010)
面積299,404km²

解説

1521年、マゼランがこの地に到達して以来スペイン領となり、当時の皇太子フェリペ(後の国王フェリペ2世)にちなんでフィリピンとなった。
個人の名が国の名前になったというのは、アメリカ、コロンビア、ボリビア、かつてのローデシアなど若干あるがフィリピンもその1つ。
1898年、アメリカが武力でスペインから譲渡を受けた。
その前年、フィリピンはスペインに対して独立革命を計画したが失敗、ホセ・リサールなど主要なリーダーが拘束されたのち、秘密結社カティブナンリーダーであるアンドレアス・ボニファシオたちによって考えられたもの。正式には1946年に採択された憲法によって制定された。

8本の光芒のある太陽は、最初に独立革命に立ち上がった8都市と自由を表わし、3個の星はこの国のおもな3地域、すなわちルソン島、ビサヤ群島、ミンダナオ島を表わす。
赤は勇気、青は格調高い政治目的、白は純潔と平和の象徴である。
同国国旗法第5条によれば、戦争状態が宣言されると、勇気を表わす赤が上にくるように掲げられるという珍しい国旗。

フィリピンには「独立の父」とも言うべき人が二人いる。
ホセ・リサール(1861~96)とエミリオ・アギナルド(1869~1964)。
リサールはもともと留学帰りの医者だったが、自由を求めての活動がスペイン当局の目に止まり、1896年、秘密結社カティプナンが独立闘争を開始すると、官憲に逮捕され、死刑を宣告された。
キューバで医療活動をするなら処刑は取り消せるとの提案も蹴り、同年末、銃殺刑となった。
処刑前夜に妹に手渡した辞世の詩Mi Ultimo Adios(我が最後の別れ)と名づけられ、祖国への熱い思いを伝えるものとして有名である。
マニラ湾の美しい夕日を臨む処刑の地には記念碑があり、現在、24時間衛兵が侍立している。
また、1888年のリサールの来日を記念した顕彰碑が日比谷公園の帝国ホテル側にある。

フィリピンはこうした経緯でアメリカの支配に移ったのだが、米西戦争において、アメリカはアギナルドらの反スペイン独立闘争の勢力を利用するため支援した。
そして、1898年6月12日、アギナルドは自宅において大統領として独立宣言を発した。
かくして、現在もフィリピンでは6月12日は独立記念日とされている。
しかし、同年8月13日には戦闘が終結したが、12月10日のパリ講和条約でフィリピンの建国を認めないアメリカは約2000万ドルでフィリピンの支配権を譲り受けたのだった。
時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーは「フィリピン群諸島はアメリカの自由なる旗のもとに置かれなければならない」との声明を発表したが、アギナルドをはじめフィリピン国民は猛烈に反発し、この闘争で60万人ものフィリピン人が惨殺され、独立運動は鎮圧されてしまった。
翌年3月、アギナルドも逮捕され、アメリカの支配が確立してした。
この闘争のとき、すでにフィリピンは現在の国旗の原型を使っていた。
8組の光線はこの闘争に立ち上がった8つの州を表している。

その後、アギナルドは静かな生活を送っていたが、第二次世界大戦が勃発し、日本軍が進撃してくるとこれに協力し、ラジオを通じてコレヒドール島のマッカーサーに対して、フィリピンの青年の命を助けるべく降伏せよと演説したのであった。
当然、米軍の再上陸によりアギナルドは日本軍への協力者であるとして逮捕されたが、終生、国民的な支持が集まっていた。
特に、1946年7月4日、フィリピンが名実共に独立したとき、その祝賀パレードでは77歳のアギナルドがフィリピン国旗を高々と掲げて行進したのだった。
フィリピンはアギナルドの波乱の人生が象徴するように、アメリカとは援助を受けたり、多大の犠牲を払って独立闘争をしたり、複雑な経緯を経て今日に至っている。
そうした中でアンビバレント(二律共存)な形ではあるが、青白赤の星条旗の影響を受けたデザインの国旗を今日も掲げているのである。