ミャンマー国旗物語①


日本が強力な後ろ盾となっていた1943~45年の国旗。

独立後、1948~1974年までの国旗。
アウンサンスーチーさんや亡命政権は今もこの国旗のみを認めている。

1974~2010年までの国旗。
社会主義を標榜する軍事独裁政権が採択した。

2010年11月に採択された現在の国旗。
政権による民主化への新しい取り組みの第一歩だったのか。

ミャンマー(ビルマ)では国民の90%が上座仏教を篤く信仰しています。私が特別顧問を務める認定NPO法人難民を助ける会がヤンゴン(ラングーン)で、理髪や裁縫などの職業訓練を行って障害者へ支援していますので、何度かこの国を訪問しましたが、早朝から托鉢僧が街を歩き、金箔を貼った大きな寺院が立ち並び、そこでは静かに瞑想している僧侶が大勢います。表面だけ見ていると、実に、静穏な落ち着いたたたずまいに気持ちの安らぎを覚えます。ただ、ビルマ族が 国民の68%を占めるとはいえ、シャン族 9%、カレン族 7%、ラカイン族 3.5%、モン族 2%、カチン族 1.5%、カヤー族 0.75%と続き、中国系の人(華僑)が 2.5%、インド系の人(印僑)はその約半分おり、その他の少数民族も合わせて4.5%いるとされています。この複雑な民族構成がこの国の不安定要因の1つです。

1962年のクーデターでネウィン将軍(1911~2002)が樹立した軍事政権は、74年に歯車と稲穂のついた国旗に変えたように、社会主義を標榜しました。しかし、東西の冷戦構造が崩壊してゆく中で、軍事政権は国の発展を図れないまま、1990年5月27日に総選挙を行いました。結果は、アウンサンスーチーさんの率いるNLD(国民民主連盟)の圧勝でした。ところが、この結果について、軍事政権側は、「民主化より国の安全を優先する」と言い出し、権力の移譲を拒否したのです。国際社会はこれを激しく非難し、経済制裁を課しました。91年、自宅軟禁の続く中でアウンサンスーチーさんにはノーベル平和賞が贈られました。授賞式に参加できなかったアウンサンスーチーさんですが、賞金は全額、基金の設立にあて、困窮者への支援などに使用することにしました。

あれから20年が過ぎ、今年2012年1月13日、そのミャンマーでは大統領の恩赦という形で651人の受刑者が釈放されました。内、591人はアウンサンスーチーさんが率いるNLDの「政治犯」で、これでNLDが要求していた全員が釈放されたことになります。ミャンマーが大きく舵を切り替えたかのような行動に出、今度は国際社会の新たな対応が求められる順番になってきた流れです。

民主主義と人権を最高の価値観とするアメリカのこれまでの対ビルマ政策は相手の存在を無視するような、実に徹底したものでした。2年余り前の2009年12月、東京のサントリーホールで行われた「オバマ演説」を、私は会場で注意深く聴きましたが、大統領はアジアの大きな課題として「ビルマの民主化を強く要求する発言をしました。日本のメディアが同国を呼ぶミャンマーとは一度も言わず、終始、ビルマの呼称を用いていました。このことでも、アメリカの姿勢は明らかでした。

その後もミャンマーの民主化をめぐって欧米諸国とミャンマーの間で、熾烈かつ微妙な駆け引きが続きましたが、ミャンマーの民主化はなかなか進まない状態でした。欧米諸国による経済制裁でミャンマーはASEAN(東南アジア諸国連合)の加盟国中、依然、最も停滞した発展段階に留まっています。

他方、軍事政権側もこのままでは国の運営は立ち行かなくなるのではと危惧し、なんとか自分たちにあまり不利にならないような形で「民主勢力と折り合いをつけよう」としているような気配がありました。

「オバマ演説」の10カ月前、2009年2月、軍事政権は憲法草案を発表しました。この憲法草案には付属図として、国旗と国章がカラー印刷で添付されていました。毎月、ユーラシア21研究所で開かれているメコン地域研究会の席上、ビルマ法制史の専門家である奥平龍二駒澤大学教授がその憲法案の全文(英語とビルマ語で書かれた1冊の本の形)をお持ちくださり、説明してくださいました。私は国旗が近々変更されるであろうということをこの時、初めて知りました。

そして、2010年10月21日、ミャンマーの国営放送は、憲法の施行に先立ち、この日から軍事政権が新たな国旗を使用すると発表しました。政治変革の兆候が最初に国旗に現れたのです。

それが現在の国旗である黄、緑、赤の三色旗の中央に大きな白い星を描いたものです。黄色は国民の団結、緑は平和と豊かな自然環境、赤は勇気と決断力を象徴し、三色の帯にまたがる白星はミャンマーが地理的・民族的に一体化する意義を示していると説明されました。また、このデザイン、バガン王朝(1044~1287)の3人の優れた王を表すという説があるそうですが、詳しくは奥平先生のも分からないとのことでした。

しかし、従来の国旗がいずれも赤地で、カントン(竿側上部)に紺地に浮かんだ星だったり、社会主義の象徴である稲や歯車を白抜きにしたものでしたから、黄色や緑が加わり、それまでの国旗のイメージを一新したこの変更にはいささか驚きました。

ただ、思い起こしてみれば、この三色旗は日本が第二次世界大戦中に「建国」したビルマ国の国旗と酷似しているのです。当時の旗は白い星ではなく、三色はそのままに、星の位置にビルマ最後の王朝であるコンバウン朝(1752~1886)のしるしである緑色の孔雀を描いたものでした。また、新しい国旗は、少数民族のシャン族が多数を占めるシャン州の州旗ともよく似ています。その州旗は、同じ三色旗の中央に白い丸を配したものです。

ですから、新しいミャンマーの国旗の図を見て、私はまず「あれっ、もしかして日本へのシグナルかな」と感じ、次に、僧侶の着衣を思わせる黄色が上ということは今回釈放されたガンビラ師を筆頭に「全ビルマ聖職者連盟に団結する僧侶たちへの気遣いかな」、そして軍事政権と鋭く対立し、今回同じく指導者たちが釈放された「シャン民族民主戦線への配慮もあるのかな」などと考えてしまいました。

2009年5月2日、サイクロン・ナルギスがミャンマー南西部を直撃し、死者約8万5千名、行方不明者約5万4千名が発生しました。難民を助ける会では野際紗綾香さんを直ちに派遣し、被災地で、障害者を中心に積極的な救援活動を展開しました。そのさなかの5月10日、憲法草案の是非を問う国民投票を実施(洪水の罹災地域では24日に実施)しました。投票率99%、内92.4%が賛成したとして新憲法は承認された形となったのです。そして7月7日、その憲法に基づく総選挙を実施しました。

話が少し進みすぎました。第2次世界大戦中の日本とビルマの関係については少し説明が必要かと思います。主役はアウンサン将軍(1915~47)です。今日、ビルマの「建国の父」と崇められ、アウンサンスーチーさんはその長女に当たります。

イギリスの植民地から脱却して独立をと図った将軍は、日本に招かれ、やがて「南機関」(対ビルマ工作に当たっていた特務機関)のトップである鈴木敬司陸軍大佐(予備役少将)を後ろ盾に反英運動を行い、1943年8月にはバモウを首相に、自らは国防大臣となってビルマ国を建国しました。将軍たちにとって残念だったのは、その後の日本軍がインパール作戦の失敗などで敗色濃厚となったことです。そこで、45年5月、アウンサン将軍は「勝利の暁には独立を認める」というイギリス側との約束を決めて、抗日運動に転じ、イギリス軍を中心とする連合軍に加わりました。

しかし、戦後イギリスはその約束を反故にし、アウンサン将軍らの愛国ビルマ軍はイギリス軍が指揮するビルマ軍に取り込まれました。そこで1946年1月、アウンサンは政治闘争に力点を置き、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を組織し、その総裁としてイギリス政府との交渉に専念することにしました。

アウンサンと鈴木、二人の将軍をめぐる有名なエピソードがあります。イギリス政府は日本に帰還していた鈴木少将をビルマに連行し、BC級戦犯として訴追しようとした時、アウンサンは、「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か!」と猛反対し、鈴木は釈放されたのでした。また、バモウは間一髪、ビルマを脱出、日本に逃れ、新潟県に潜伏していました。そして、終戦から5か月たった1946年1月にGHQ(連合軍最高司令部)に出頭し、巣鴨の東京拘置所に収監されましたが、イギリス政府は総合的に考慮した結果、その罪を問わず、バモウは同年8月にビルマに戻ることができました。SEAC(東南アジア地域連合軍最高司令官)マウントバッテン卿(1900~79)がアウンサンらの愛国的な活動に理解を示したことが大きかったとみられています。

アウンサンは基本的に反英独立主義者であり、完全独立を目指してさらに活動を続けました。そして1947年1月27日、イギリスのC.アトリー首相と、1年以内の完全独立を約束する「アウンサン・アトリー協定」をまとめることが出来ました。

しかし、この年の7月19日、ビルマの独立が完成しないうちに、政敵であり、これまた親日家でもあったウソウ前首相に近いテロリストによる凶弾により、アウンサンは6人の閣僚とともに殺害されてしまいました。享年わずか32。ビルマが独立したのはその半年後、48年1月4日のことでした。

ビルマの歴史の中に日本は大きな関わりを持ったのです。南機関の元メンバーたちは、戦後もさまざまな機会にビルマを訪れ、支援活動も続けました。

そんなことから今の国旗を見るにつけ、私にはそこに日本がうっすらと見えてくるのです。

ミャンマー国旗物語②
ミャンマー国旗物語③

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